あたりまえ

hhcハンナブログ2016.04.06wed
(さくら2016@小学校)

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おはようございます!

ここ何年も気になっている言葉の
ひとつに「あたりまえ」があります。

ある方と話していると
「そんなことは、して当然でしょ!」
と強い語調で詰めよられたことが
ありました。

自分たちのように大変で弱い立場の
人たちにはもっと気をつかって
いろいろなことを自発的に
その人たちのためにするのは
あたりまえ、当然でしょ!
という内容でした。

詳細はプライバシーの関係で
伏せておきますが、
ここでどうも引っ掛ったのが
「あたりまえ、当然」という言葉を
使われたことでした。

この方が言われた気持ちを
考えると、わからないわけでは
ありませんでした。

しかし、よくよく考えると
「あたりまえ、当然」と本当に
私たちが言えることはどれほど
あるのでしょうか?

「ひとつもない」というのが
私のおもいです。

もちろん、そう言っても
おかしくないように感じることも
あるでしょう。

例えば、行政サービスや政治家、
またはレストラントでのサービスに
対してなど私たちが権利と感じる
ことにたいしては、当然と感じる
ことが多いと思います。

私もそのように長いあいだ
考えていたように思います。

でも、やはり腑に落ちないのです。

なんだか、しっくりとこないのです。

イースターがおわり教会歴と言われる
キリスト教のカレンダーでは
復活節という期間に入っています。

イエス・キリストは神の御一人子で
あったにも関わらず、自らの権利を
主張し行使しても当然と考えれる
ことは全くせず、ただただ父なる神の
御旨を行うことに徹していました。

そして、私たちのために十字架の
上で最後の最後まで肉体的に、
精神的にそして霊的に苦しみ
悲しまれました。

 イエスは大声で叫んで、
 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
 と言われた。それは「わが神、
 わが神、どうしてわたしを
 お見捨てになったのですか」
 という意味である。
 (マタイによる福音書27章46節)

このことを思うとき、
私にはあたりまえ、当然ということは
ないのではないかと思わされます。

すべてがあるのは、当然の権利を
私たちのためにすべて放棄された
このイエスの愛ゆえなのです。

今一度、あたりまえを考えて
みませんか?

今日も主にあって、そして祈りつつ^^/

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