聴応祈時 以前の記事

2012年8月15日水曜日

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
-テサロニケ人への手紙 5章16-18節-

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昨夜、面白い(?)事があった。

カウチに座っていると、部屋の天井に近いところに貼ってあった、
一枚の小さな白い紙がすっと落ちてきた。

あっ、と思ったら自然に私の両手の中に入ったのである。
すぐ近くのダイニングテーブルにいた妻もこの出来事を目撃したが、
妻にはこの白い小さな紙が、ハトに見えた。

では、この白い小さな紙の正体は・・・?

実は、これは数年前に自分で書いた、生活目標の一枚であった。
それには、次のように書いてある。

先ず大きく、「6時起床」。
そして小さく、「Devotion」と「Updating H.P.」。

つい先日、
岡山のユースキャンプに講師として奉仕をさせて頂く機会があった。

その時、
メッセージで「神と自分の縦の関係をまずはしっかりともたなければ、
他のどんな関係もぶれてしまう。この縦の関係をいつもまっすぐに
保つためには、継続的に神との交わりを持つことがとても大切である。
そのためにDevotion(ディボ―ション)を最低一日一回、それも
出来限り朝一番に持つことが重要である」と、話した。

このことを話しながらいつも感じるのが、
自分自身はどうなの?という思いである。

正直、出来ていない時の方が多い。とても恥ずかしいのですが。

話をもとに戻すと、こんな事を思っていた時に、天から、
いやいや正しくは、天井から、すっと、たまに思い出すように
見上げていた目標が、僕をめがけて落ちてきたのであった。

まるで、神様が「6時起床でディボ―ションをちゃんとしなさい!」と、
直接話して下さっているかのようであった。

その時、妻は「今の何?ハト?」と言った。

私は、キャンプでのこと、そして、この小さな紙が何か、
私はどのように感じたかを話し、
二人できっと神様が「ちゃんと実行しなさいよ!」と優しく、
でもハッキリとわかる形で示して下さったんだねと、
嬉しく話し合った。

そあー、そして、その翌朝である。

ちょっと過ぎてしまったが、6時過ぎに起きて聖書に聴き、
ディボ―ションを持つことが出来た。
寝起きは、何だかちょっとボーっとしていたが、やはり嬉しい。
神様から言われたことを実行できることは、
何と言っても気持ちが良い!

それも朝一番から!本当に感謝である。

あー、そーか!

こんな良い気持ちで一日を始められるから、
朝一番のディボ―ション(神との交わりの時)って良いんだ!
やはり、自分で体験しなければいけないんだと、
「うん、そうだと」とうなづきながら聴応祈時を書いている。

本当に嬉しい昨夜の出来事と、
感謝な朝一番のディボ―ションである。
 


2012年6月5日火曜日

また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。
-詩篇 19篇13節-

最近、仕事である英語教室に定期チェックアップに行って来た。
もう、何年も成長を見てきている子供多くいる。

幼稚園を卒園し、小学校に入学すると、個人差はあれど大きな変化を
見ることが出来る。

良い意味では、成長ともいえるのだろうが、
その中には、叱られてしまうような事も多くある。

大抵は、その成長の中で色々なところを通り、学んでいくのだが、
「この子は、どこまでちゃんとダメな事はダメだと
近くにいる大人から(愛を持って)叱られているのだろうか?」と
思ってしまう事が増えている。

叱りかたには、それぞれ、様々な考え方、方針、方法があるだろうから、絶対これでなくてはとは、言えない部分もある。

しかし、確実に言えることは、もし、叱らなければいけない時に叱らなければ、
その子供にとって、非常に大きな損失となり、それは自分に回ってくるのである。

詩篇19篇13節は、現代社会の抱えている問題をハッキリと指摘している。

罪は最初、指摘されなければわからないことが多くある。

そして、成長とともに不意に犯してしまう罪から、
多くが故意の罪へと変化していく。
不意の罪が叱られなければ、故意の罪はたとえ叱られたとしても、
謝る(悔改める)ことは容易ではなくなる。

そして、故意の罪は一度犯しだすと、悪性腫瘍のように、
体の隅々まで深く入り込み、気がついた時には手遅れになるのである。

先週も、ある生徒を厳しく叱った。

最後の最後まで、その生徒は態度を変えることはしなかった。

しかし、ある意味、これからが楽しみである。
真剣に叱られてから、私たちは変わるものである。
この生徒の今後の成長に、不安を感じつつも、大いなる希望を感じ、
ドキドキわくわくしている毎日である。

叱られた本人も、ある意味大変だったろうと思うが、叱った自分も正直疲れた。

私たちの罪を一身に背負われたイエスの心うちは、
いかなるものだったのだろうと、深く考えさせらた。


2012年5月23日水曜日

そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
-詩篇 32章1節-

幼い時から色々なことを
親、家族、教師、周囲の大人に教えてきてもらった。
そんな中、一番、強烈な記憶として残っているのが、叱られた時である。
もちろん、楽しい事や、嬉しい事や、悲しい事を通して
教えられたことも多くあるが、やはり、叱られた時の記憶が、
私にとっては一番である。

まだ、四国の田舎に住んでいた時、兄弟そろって良く叱られた。

特に、これからどこかに出かけようとしている時に、起こってしまう。
叱られ、今日はもう行かないと言われ、大泣きしながら必死に謝る・・・。
こんな日が多かったように感じる。

わが家では、いつも叱られた時、最後に、イエス様の話になり、
私たちの罪のためにイエス様は十字架につけられ、
死ななければならなかったと言われる。
そして、そんな罪のために、また、私たちがイエス様を十字架に
つけていると、ダメ押しされる。

それを聞くと、子供ながらに胸が苦しくなり、泣いて、
親と一緒に「ゴメンなさい」の祈りをする。
この一連の叱られ謝りの時が終わると、もう行かないと言われた所に
連れて行ってくれたのものだった。

泣き、謝り、祈ることによって、心身ともにすっきりとした後、
このような親の判断には、毎回、なんとも嬉しかったことを今でも
良く覚えている。

もし、叱られもせず、適当に怒られ、なんとなく謝っていたなら、
今、私はどんな大人になっていたんだろうと、考えさせられる日がよくある。
聖書のメッセージの中心は、何と言ってもキリスト・イエスの十字架と
復活による罪の完全なる赦しと、この事実によって約束されている
永遠のいのちである(福音)。

神は詩篇の筆者を通して、イエスが地上に来られるはるか以前に、
この真理を私たちに示して下さっていたのである。

悪い事は、悪い。そして、悪い事をしたら、素直に謝る。これは子供でも、
大人でも変わることのない真理なはずである。
しかし、この真理はどこかで忘れられてしまい、ひたすら、いかに自分が
正当かを主張するのが当たり前になってしまっているのが、
私たちの生かされている今の社会の現状である。

今日、私たちは、どちらを選びますか?

素直に自分の間違いを認め謝るのか、または、最後まで自分のした
間違いを正当化するのか・・・。

今日の判断が、明日の自分を、そして、明日の社会をつくるのである。


2012年5月16日水曜日

「このふたりは、われらの主イエス・キリストの名のために、
 その命を投げ出した人々である・・・」。
-使徒行伝 15章26節-

「命を投げ出す」、

このような表現が日常生活でつかわれることはほとんどありません。
また、「命を投げ出してまでのことはありますか」と聞かれる時、
すぐに答えることができる人はとても少ないのではないでしょうか。

私自身、とっさに答えられるかどうか・・・と思ってしまいます。

聖書には、命について語られています。
誰がどのように命を与えたか、命の尊さ、命が取り去られること、
奪われること、命の考え方、永遠の命などいのちについて
様々なことが語られています。

世の中には、命について色々な考え方がありますが、
聖書は、命は、神によって一人一人に特別に、
そして私たちが母の胎に生まれるはるか以前から計画され、
創られていると言っています。
そして、地上での生活のあとも、その命は何か別のものに
生まれ変わったりするのではなく、
その命のまま永遠の世界に入っていくのであると言っています。

このように、一人一人にカスタムメイドされた命、
そして、永遠に続くこの命をかけてまでのことを、
私たちはもっているでしょうか?

命について聖書が言っている一つに次の言葉があります。

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
わたしのために自分の命を失う者は、
それを見いだすであろう。」
(マタイによる福音書16章25節)

私達に与えあられているこの命、何のためにつかっているのか、
今日も、神に聴き、神と語り合いたいものです。