礼拝へのお誘い 神様を求める方、礼拝する心を持って来られる方は、どなたでも参加出来ます!
*問:礼拝とは? 答:日頃神様がなして下さっている一つ一つの事への感謝と賛美を、わざわざ神様のもとに帰ってきて、神様にささげることです。日曜日の礼拝は、特に一緒にこの日頃の感謝と賛美を神様にささげる礼拝です。
- 礼拝前さんび練習:10:20
新聖歌71番「良きおとずれ」(新聖歌94頁) - 日曜主日礼拝:10:30~ *ライブ配信はここをクリック!
聖書:マタイによる福音書25章1~13節
メッセージ:「準備とは確認すること」
礼拝式次第
- 招詞:イザヤ書9章6節
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。 - 賛美:新聖歌69番「エサイの根より」
- 主の祈り
- 信仰告白:使徒信条
- 交読文:口語訳50 イザヤ書53章
- 祈祷
- 賛美:新聖歌 46番1, 2節 わが主よ 今ここにて 〔65頁〕
- 聖餐式
- 賛美:新聖歌 46番3, 4節 わが主よ 今ここにて 〔65頁〕
- 聖書:マタイによる福音書25章1~13節
- 賛美:新聖歌73番「生けるものすべて」
- 説教:「準備とは確認すること」
- 賛美:新聖歌87番「入れまつる家あらず」
- 献金:新聖歌55番「今ささぐる」
- 献金感謝祈祷
- 頌栄:リビングプレイズ91番「待ち望め主を」
- 祝祷
聖書箇所
マタイによる福音書25章1~13節(口語訳:新約41頁)
1そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。2その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。5花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。6夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。8ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。9すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。10彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。11そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。12しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。13だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
説教(メッセージ)要旨
「準備とは確認すること」
メッセージ取次者:髙橋勇哉牧師
聖書箇所:マタイによる福音書25章1~13節
「キリストの降誕を待ち望み、そのために準備する期間」であるアドベントの2週目である今朝は、準備は確認することであることを今朝の聖書箇所を通して共に神に傾聴します。
辞書のOxford languages (オックスフォード・ランゲージズ)によると、【準備】ある事にすぐ取りかかれる状態にすること。用意。したく。とありました。この言葉の意味がよく示されている聖書箇所が、今朝の「十人のおとめ」(マタイによる福音書25章1~13節)の譬話です。イエスご自身が天国について教えられている箇所です。その中で十人のおとめが二つのグループに分けられていて、一つは思慮が浅い五人、もう一つは思慮深い五人です。何をもって思慮が浅いのか、思慮深いのかが一つのカギです。それは、このアドベントの期間のテーマと同じ「準備」です。
思慮が浅い人達と思慮深い人達の違いは待ち望んでいた方が来られる時、その方を迎えるための準備をしていたか、していなかったかです(マタイによる福音書25章3~4節)。この譬話で興味深いのは、思慮が浅い思慮深いと分けるのに居眠りをしていたことは考慮されていない点です。イエスは私達人間が誰しもどのような状況に対しても居眠りをすることがあることを、人として私達と同じように肉体を持って同じように日々の生活を生きていたイエスには、ご自身の経験を通してよく理解していたのです。私達人間にはどうしても様々なことに限界があります。しかし、その限界とは関係なく待ち望んでいることは、私達の今の状況にかかわらず来ることがあります。その時が来る時、たとえ限界ゆえに休んでいても準備が出来ていればすぐに対応でき、待ち望んでいた事をしっかりと自らのものとすることが出来ます。逆にどんなに熱心に待ち望んでいても、その時が来た時に準備をしていなけば、それを自らのものとして喜びを得ることは出来ません。
十人のおとめの譬話を通して、準備とは私達が待ち望んでいることは何か、その時のために何が必要なのか、そのために用意することは何かを確認することを、神に聴きました。この準備の時であるアドベントのいま、何を待ち望み、そのためにどのような準備が必要か、イエス・キリストの十字架を土台として聖書と祈りと礼拝を通して、自らのチェックリストをつくり、準備しようではありませんか。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。(テモテへの第一の手紙1章15節)


